史記(扁鵲扁)

史記 扁鵲倉公列伝(扁鵲扁)

『扁鵲倉公列伝』江戸・嘉永二年影宋本
『扁鵲倉公列伝』:オリエント出版、東洋医学善本叢書第五期(1992年)
より


 扁鵲(へんじゃく)渤海郡(ぼっかいぐん)(てい)の人である。姓は秦氏、名は越人。若い頃、ある人の舎長をしていたが、そこに長桑君(ちょうそうくん)と言う隠者が賓客として滞在していた。その館舎の人々の中で、扁鵲だけが長桑君として認めて、いつも鄭重に待遇していた。長桑君も扁鵲が常ならぬ人であるのを知っていた。こうして十数年たったある日、長桑君は扁鵲を呼んで二人だけで対坐し、密かに言った「私は秘法の医術を心得ているが、年終えたので、あなたに伝えたいと思う、他言はしないように」扁鵲が「謹んでお言葉に従います」と答えると、懐中の薬を出して扁鵲に与え、さらに後をついだ。「これを雨露で飲んで、三十日たつと、不思議な現象を見ることが出来るようになるだろう」
 そして、秘法の医術書をことごとく取り出して、全て扁鵲に与えると姿を消した。それはとても人間とは思われなかった。扁鵲が言われたとおりにして薬を飲み三十日すると、塀を隔てた向こう側の人を見ることが出来るようになった。その目で病人を診ると、見ただけで五臓のしこりが全て分かり、病原の所在を突き止めることが出来たが、ともかく脈を診て病状が判ると言うことにしておいた。こうして医者になって、あるいは斉に住み、あるいは趙に住んだ。趙に居た頃、扁鵲と呼ばれるようになった。

 普も定公のとき、普では大夫たちが強く公族は弱く、趙簡子(ちょうかんし)大夫(たいふ)として国事をもっぱらにしていた。その簡子が病気にかかり五日の間、人事不省であった。
 大夫達は皆心配して扁鵲を召した。扁鵲は簡子の部屋に入り、診察して出てきた。薫安于が病状を問うと、扁鵲は言った。「血脈は正常です。それなのに人事不省に陥っておられるのは、どうも奇怪なことです。むかし秦の穆公がこのようになり、七日たって正気づいたことがあります。正気付いた日に公孫支と子興に『わしは天帝の所に行っていて、非常に楽しかった。久しく留まっていたのは、たまたま、天帝から教命を受けるところがあったからだ。廷丁はわしに-秦国はまさに大いに乱れようとしている。五代にわたって安定しないだろう。その後、覇者になるだろうが、その人物は老齢に達しないうちに死ぬであろう。覇者の子は淫乱で、その国を男女の別が無いようにしてしまうだろう-とお告げになった』と語りました。公孫支がこのことを記録してしまっておいたのですが、秦の予言書は、このようにして世に出たのです。献公の乱、文公の覇、襄公が秦軍を殽に破って帰ってから淫乱をほしいままにしたのは、あなたもお聞き及びになっているところです。
今、ご主君の疾病は、これと同様です。三日と経たないに、必ず平癒なさいましょう、平癒なさいますと必ず何かおっしゃいましょう」
二日と半日たって、簡子は正気づき、大夫たちに語った「わしは天帝の所に行っていて、非常に楽しかった。百神とともに中央の天に遊んだ。そこでは、いろいろな楽器が並べられていて、音楽が奏でられ、舞が舞われたが、それらの舞楽は夏・殷・周三代の楽のようではなく、その音声は人心を動かした。一匹の熊が出てきて、わしをさらおうとした。天帝はわしにそれを射てと命じた。射って上手く命中すると熊は死んだ。すると、また一匹の羆が出てきた。わしがまた射て当てると羆も死んだ。天帝はお喜びになり、わしに二種の方形の箱を下賜されたが、二種とも対になっていた。わしは小児が天帝の側にいるのを見た。天帝はわしに一匹のテキ産の犬を委嘱して『汝の子供が壮年に達したときにこれを与えよ』とおっしゃって、さらに『普国は世々衰えて七代たって滅びるであろう。嬴姓(えいせい)は周を范魁の西で大いに破るだろうが、その地を保有出来ないだろう』とおっしゃった」董安于がその言葉を受けて書き取り、これを保存した。そして扁鵲の言葉を簡子に告げた。簡子は扁鵲に四万畝の田地を贈った。

 その後、扁鵲は(かく)に立ち寄った。それは、虢の太子が死んだ直後であった。扁鵲は宮殿の門の所へ行って、中庶子で医術を好む者に問うた。
「太子は何の病気でしたか。国中の祈祷の仕方はただごととは思えませんが」
「太子のご病気は、血気の運行が不規則になり、交錯して泄することを得ず、暴発して、体内を害したのです。精神は邪気を止められず、邪気が蓄積して泄することを得ず、精気が邪気を押さえきれなくなり、邪気が積もって発散出来ず、そのために陰陽の調和を欠いて、陽気の働きが緩やかになり、陰気の働きが急になったので、気が逆上して死んでしまわれたのです」
扁鵲曰く「死亡されたのは、いつ頃ですか」
「夜明けから今しがたまでの間です」
「納棺されましたか」
「まだです、死亡されてから半日も経っていませんから」
「わたくしは、斉の渤海郡の普越人と言う者でして、家は鄭に有ります。これまで太子の尊容を拝する機会が無く、従って謁見もかないませんでした。今、伺えば太子は不幸にして死亡されたとのことですが、生き返らせてさしあげます」
「ほらを吹いている訳では無いでしょうな。どうしてまた、太子を生き返らせることが出来ると言われるのですか。聞くところによりますと、大昔、兪跗という名医があり、病息を治すのに湯液、醴灑、鑱石(へんせき)、撟引、案扤※、毒熨などを用いず、ちょっと病人の衣服を開いてみるだけで病気の兆候を知り、五臓の腧穴の様子で、皮膚を裂き、肉を切開し、詰まった脈を通じ、切れた脉を筋と結び、骨髄・脳髄を搦め、膏膜をさらい、腸胃をあらい、五臓を濯ぎ、心気を治め身体を調整したとのことです。先生の医術がこのように優れているのでしたら、太子は生き返ることが出来るでしょう。とてもこの程度まで行かないのに、太子を生き返らせようと言われましても、赤ん坊にも相手にされないでしょう」

 このような話でその日が暮れてしまうと、扁鵲は天を仰いで嘆息して言った。
「あなたの医術などは、管を通して天を伺い、隙間から込み入った模様を見るようで、とても全般を見通すことは出来ません。ところが、わたくしの医術は、脈を診たり、顔色を伺ったり、声を聞いたり、姿形を察したりするまでもなく、病気の所在を言い当てられるのです。病気の陽を聞けば陰も分かり、陰を聞けば陽も判るのです。千里の外に出かけて診察しなくても正確な診断を下せることが極めて多く、覆い隠すことなど出来る者ではありません。わたくしの言葉が本当で無いと思うなら、試しに殿中に入って太子を診て御覧なさい。その耳が鳴り、鼻が膨らむ音が聞くことでしょう。その両股をなでていって陰部に触れればまだ温かいでしょう。」
中庶子は扁鵲の言葉を聞くと、目はくらんで瞬きもせず舌はこわばって動かなかった。そして、殿中に入って扁鵲の言葉を虢君に報告した。虢君はこれを聞いて大いに驚き、出御して、中門のところで扁鵲に有って言った。
「ご高義について密かに承りますことは、既に日久しいのでありますが、まだお目に掛かったことはありませんでした。先生がこの小国に立ち入られ、幸にも太子の病気にお心にかけてくださいましたのは、はなはだ幸福なことであります。先生がおられましたからこそ、生き返ることが出来ますが、おられませんでしたら、すてられ溝に埋まり、そのまま永久に死んでしまったことでしょう。」
言いも終わらず、すすり泣いて胸は咳き上げ、顔は曇り、涙はしとどに流れてとどめるすべもなく、容貌は変わり果ててしまった。扁鵲は言った
「太子の病気のような物が、いわゆる尸蹶(しけつ)です。そもそも、陽気が下って陰気の中に入り、それが胃を動かし、経脈・絡脈にまつわり、わかれて三焦の下焦である膀胱に下ります。それ故、陽脈は下に下り、陰脈は上に向かって争い、八会の気はふさがれ通ぜず、陰気は上に登り、陽気は内をまわり、下に下った陽気は身体の下部で鼓動はしますが上に向かわず、上に登った陽気は登りっぱなしになって陰の役を果たしません。こうして、上には陽気の絶えた絡脈があり、下には陰気の破れた経脈があり、陰陽の調和がくずれて顔色がなくなり、脈が乱れて、そのために身体が動かなくなり、死んだようになる訳です。太子はまだ死んでおられません。一体、陽気が陰気に入って五臓を支える者は生きますが陰気が陽気に入って五臓を支える者は死にます。およそ、これらの数々のことは体内で逆上するときに急激に起こる物です。
上手な医者はこのことを信じますが、下手な医者は疑い危ぶむのです。」かくて、扁鵲は弟子の子陽に言いつけて、鍼を砥石で研がせ、太子の身体の外面にある三陽・五会に鍼を打った。しばらくすると太子は蘇生した。そこで弟子の子豹に言いつけて、五分の熨を作り、それを八減の剤で煮させて、太子の両脇の下に貼付した。太子は起き上がれるようになった。そこでさらに、陰陽を調節し、煎薬を二十日の間服用させただけで、太子は元通りになった。それ故、天下の人々は、みな、扁鵲は死人を生き返らせることが出来ると思った。
しかし、扁鵲は言った。「私は、死人を生き返らせることが出来る訳ではない。あれは自ら当然生きているべき者で、私は、起き上がらせてやったまでのことだ」

 扁鵲が斉ヘ行った。斉の桓侯は彼を賓客として待遇した。扁鵲は参内して桓侯に謁見して言った。
「殿には病気がおありにあり、今は腠理(そうり)に留まっておりますが、治療なさらないと、さらに深く入り込みましょう」「わしに病気など無い」と言った。扁鵲が退出すると、桓侯は左右の者に言った。「あの医者の利益を好むことと言ったら、病気でない者を病人にして、自分の侯に仕様とするのだからな」
五日後に扁鵲はふたたび桓侯に謁見していった。「殿には病気がおありになり、今は血脈に留まっておりますが、治療なさいませんと、さらに奥深く入り込みましょう」「わしに病気など無い」とふたたび言った。扁鵲は退出した。桓侯は不快の様子で有った。その五日後に、扁鵲はまた桓侯に謁見していった。
「 殿には病気がおありになり、今は脾胃の間に留まっておりますが、治療なさいませんと、さらに奥深く入り込みましょう」桓侯は返事をしなかった。そして扁鵲が退出すると、ますます不快な様子であった。
その五日後に扁鵲はまたまた謁見したが、遠くから桓侯を眺めただけで、退出して走り去った。桓侯が人をやってその理由を尋ねると。扁鵲は言った。
「病気が腠理にあるうちは煎薬や膏薬で治ります。血脈にあるうちは、鍼や石針で直せます。脾胃にあるうちは、酒醪で治せます。ところが、骨髄まで入りますと司命であっても、もはやどうすることも出来ません。今、殿の病気は骨髄にあります。ですから、わたくしには何も申し上げることがないのです。」
それから五日後に、桓侯の身体は痛み出した。人をやって、扁鵲を召したが、扁鵲は逃げ去っていた。桓侯はついに死んだ。
人がかすかな兆候に早く気づいて、名医に早くから治療してもらえれば、病気は治せるし、身は活きることになる。人が心配するのは病気が多いことであり、医者が心配するのは療法が少ないことである。

それ故、病気には六つの不治がある。
・驕恣で道理に従わないのが一の不治である。
・身を軽んじて財を重んじるのが二の不治である。
・衣食を適当にし得ないのが三の不治である。
・陰陽が五臓に并存し、気が安定しないのが四の不治である。
・身体が衰弱しきって薬を服用出来ないのが五の不治である。
・巫を信じて医者を信じないのが六の不治である。
この一つでも有る者は、病気を治すことが非常に困難である。

 扁鵲の名声は天下に聞こえた。邯鄲に行くと、その地では婦人を尊ぶと聞いて、婦人病の医者になった。雒陽に行くと老人を敬愛すると聞いて、耳、目、痺の医者になった。咸陽に行くと、秦の人は子供を愛護すると聞いて小児の医者になった。土地の習俗に従って、自在に変わったのである。
秦の太医令のリキは自分の技倆が扁鵲に及ばないのを知ると、人をやってこれを刺し殺させた。しかし、現在に至るまで脈について論ずる者は、すべて扁鵲の流れをくんでいる。
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